我が家の愛猫「美奈子」(チンチラ・シルバー・雌)は、日本時間2007年1月1日に天に召されていきました。
享年18歳と11ヶ月。人間で言えば96歳近い高齢のミナコでしたが、最期まで取り乱さず、気高い大往生
だったと思います。
福岡で生を受け、11歳で東京へ、そして18歳でシカゴへ・・・いつもそばにいて私たちを癒してくれましたね。
これからもいつまでも心の中にいてください・・・


Saint Francis Pet Funeral Services & Crematoryでお葬式をあげました


美奈子は1988年1月14日に福岡で生まれました。5人兄弟の中で唯一の雌だったので、一番ちっちゃかったね。

2007年1月1日AM2:40 (シカゴ時間12月31日AM11:40)に、我が家の娘でもあった愛猫「Minako」が天に召されました。昨年12月16日から急に食欲を無くし、12月19日に病院に連れていったときにはすでに末期の腎臓ガンとの診断でした。
Minakoは1月14日で19歳という人間に換算すれば96歳の高齢でした。老猫は腎臓病になりやすいと聞いてはいましたが、やはりショックは隠せません。女医さんからは「注射などの治療はできるが気休め程度であり、病院での治療はストレスもかかる」と、治療か自宅静養かを選ぶように言われ、2人で相談して覚悟を決めました。

治療して治るものならと思いましたが、それは難しいようでした。以前、医師が書いた「病院で死ぬということ」という終末治療のあり方についての本を読んだことがあって、病院で多くのパイプに繋がれ、最期は心臓マッサージによる分単位の延命治療よりも、自宅で静かに家族に看取られて逝くのが自然であり、尊厳を守ることができると思っています。ですから、高齢であり、治癒の見込みがないのであれば、いたずらに延命治療で苦しませるよりも自宅で静かに見守ることにしました。
果たしてどのくらい悪いのか? 本当に直らないのか? 心の葛藤があったことも事実です。ともかく食事をさせなければ奇跡も起こらないので、女医さんから処方された食事を注射器のシリンダを加工した道具で強制給餌し、そこから介護の日々が始まりました。
「19歳の誕生日を迎えようね」というのがこの時点での目標だったように思います。

お嬢様時代の美奈子です。高いところが好きで、寝るときは必ず何か敷いていましたね。お風呂はこうなるから嫌いだったけど・・・↓

食事は流動食に近いものではありましたが、それでも便秘が心配でした。日に日に体力が落ちているので、トイレで踏ん張るのも辛そうです。NONが時間を見つけてはお腹をマッサージしてやっと1粒の小さなものを出すことができましたが、これが自力では最後でした。後日、綿棒を使って2回ほど掻き出してやりましたが、誇り高い猫としては足腰がふらつきながらもトイレだけは必死に行っていただけに、PRIDEを傷つけてしまったかもしれません。
巷ではクリスマスでにぎわっている頃、Minakoはついに自力では立つことができなくなりました。朝7時と夜8時の強制給餌、日中はNONがポカリスエットを飲ませるという介護は続いていましたが、この頃には「頑張って年を越そうね」という目標に変わっていた気がします。それでも、食事を口に入れれば頑張って食べようとする姿がある限り、奇跡が起こる可能性を捨て切れませんでした。
年の瀬が押し迫った29日、最期の望みであった強制給餌もついに受け付けなくなりました。目にも力がなく、果たして見えているのかもわかりません。
それまでは名前を呼べば尻尾の先端をかすかに動かして応えてくれていましたが、もはや体温とお腹の呼吸の動き以外には生きている証を見つけることはできませんでした。
いよいよその時が迫っていることを思い知らされた瞬間でもありました。

子供のようだったり、気品溢れていたり・・・いろんな表情を見せて楽しませてくれましたね。

31日の大晦日の朝・・・ここシカゴのTVでは「紅白歌合戦」(録画)が流れていました。そんな時、たまたま2階に様子を見に行ったNONがMinakoの容態の悪化を知らせてきました。
数日前から、ポカリを飲ませた後にむせるような呼吸の乱れはあったので、またそれかと思っていましたが、今日は明らかに呼吸数が減っていて不規則です。
もはや時間の問題と悟ったので、それまで好きで寝かせていたクローゼットの床から私たちのベッドの上に身体を移し、2人で最期のときを見守りました。
紅白では今井美樹の「PRIDE」が流れていました。
10分ほど経ったでしょうか・・・呼吸が4回/分ほどまで落ち、身体に耳を当てると心音も弱々しくなっていました。NONと2人で「頑張れ〜」と声を掛けながら身体をなで続けましたが、ついにお腹の動きが停止しました。
「あ〜っ、逝っちゃったかな・・・」あふれ出る涙もそのままに、心音を確認すると「ドクッ・・・ドクッ」と弱い心音が2回ほど聞こえ、そのまま静かになりました・・・
ほとんど苦しむ様子もなく、尊厳とPRIDEを保った本当に安らかな最期だったと思います。
時間は大晦日の午前11:40でした。

東京時代の美奈子・・・この頃はすっかり落ち着いて、寝ている時間が多くなりましたね。

とても悲しい瞬間でしたがが、いつもクローゼットにいたので1日のうち様子を見ている時間は限られていましたし、本来死ぬときは隠れたがる習性の猫ですから、2人で看取ることができたのは奇跡に近いと思っています。NONが様子を見に来るまで頑張って待っていてくれたのではないでしょうか? そう思わずにはいられませんでした。
このときは、「ついに年を越せなかったか・・・」と残念に思いましたが、日本時間で言えば元旦の午前2:40だったので、今では「頑張って年を越してくれた」と思っています。
ベッドの上で逝ったMinakoを前にして、しばらく2人で泣いていました。もう紅白の曲は耳に届いていません・・・
それでも、「大往生だったよね?」「最期を看取れてよかったよね?」とお互いに納得しあい、自宅静養の道を選んだことに後悔は全くありませんでした。
少し気持ちが落ち着いたので、ペット葬儀場に連絡をするために階下へ降りました。MinakoにはNONが付き添ってあげています。最期にお話することもたくさんあるでしょう。約19年一緒に暮らしてきたので子供のような存在でしたし、人一倍人見知りが激しく、NON以外に抱かれることはないMinakoでしたから・・・

日本からはるばる1万キロ! 頑張ってシカゴまで飛んできてくれましたね。たった3ヶ月だったけど、ありがとう。

ペット葬儀場は数日前にネットで見つけていました。Wood Daleという街にあって、我が家から20分ほどのところです。州によっては1件しかなくて片道数時間という話も聞いていましたので、すぐ近くにあったのは助かりました。
葬儀は1月2日に決まりました。まだ日があるので、Minakoをドライアイスか氷で冷やしておく必要があり、花でも添えてあげたいと思いました。保管もダンボール箱ではあんまりなので、シカゴまで運ばれてきたペットキャリーバックの上半分を外して棺の代わりにしました。
スーパーで大きな氷を買い、バスタオルで巻いてキャリーバックに敷きました。その上にMinakoを安置して花も飾ってあげましたが、さっきまでまだ暖かだったMinakoは少し固く冷たくなっていました・・・
棺を床に置くわけにもいかないので、NONのパソコンデスクが臨時の祭壇です。
遺影も飾るとそれらしくなり、それから葬儀に出発するまでの間、何度となくその前に座っては、撫でてあげたり、話したりしていました。そうそう、後から灯明も点けて缶詰のお供えもしましたね。

最期の強制給餌では頑張って食べてくれましたね。3人の共同作業は大変だったけど素晴らしい時間でした。

新年は静かに迎えました。外からは花火や爆竹の音が聞こえていました。
シカゴで初めての新年は、ちょっと悲しいお正月になりましたが、気持ちの上では節目にしやすいのかもしれません。2007年は家族が1人減ってしまいますが、夫婦力を合わせて前向きに進まなければなりません。NONからも「あまり泣くとMinakoが心配するよ」と言われてしまいましたので・・・

2日の朝です。Minakoとの本当のお別れの日がやってきました。
2人とも黒系の服で身を包み、Minakoを車の後部座席に乗せ、NONが横に付き添いました。9:00に自宅を出発して、9:30前には葬儀場に到着しました。車の中ではほとんど会話もなく、NONは静かにお別れのときを過ごしていたのだと思います。
葬儀は13:00からになったので、一旦家に戻り12:40に葬儀場へ戻ってきました。祭壇の間は12畳程度のこじんまりした部屋で、扉の向こうには火葬炉があります。
担当のおじさんがやってきていろいろ説明してくれ、ペットを亡くした人向けの祈りの本、レインボーブリッジ(日本で言う三途の川)についての解説書、猫のエンジェル・ピンバッチ、キャンドルなどを受け取り、Best Friend Planにセットの足型を採取しました。そのときに毛も少し切り、遺品として渡してくれました。
説明が終わると、おじさんは「Say Good-by」と言ってしばらく席を外してくれました。
2人だけで本当に最期の時間を過ごした後、Minakoは祭壇に飾ってあった花をすべてかけてもらい、とても綺麗な姿で火葬炉に入っていきました。
ガラス窓のシェード越しに火を入れる瞬間を迎えたときには涙が止まりませんでしたが、しばらく祭壇の間で静かな時を過ごしました。
遺灰は後日送られてくるので、火葬が終わるのを待たずに自宅に戻ります。
帰り際、煙突からうっすらと煙が上がっているのが見えました。そのはかない煙はMinakoが天に昇っている姿に見えました。
さようなら・・・そしてありがとう・・・


これまでは「介護は大変」という考えを持っていましたが、「大切なものを守ることができる喜び」みたいな不思議な感覚があり、少しも大変さは感じませんでした。ある意味、貴重な体験ができたのかもしれませんね。
ペットを飼うということは、寿命を考えるとお別れを覚悟するということですよね。
もちろん、初めからそんなことを考えて飼い始める人はいませんが、決してマイナスばかりの体験ではありませんし、むしろ人としての成長にはプラスになると思います。
今回のプロセスの中で、一番考えたのは「1日でも長く」ではなく、「安らかな最期を」だったように思います。
(もちろん、年齢が大きな判断基準になっていますので、若ければ違った判断をしていたでしょう)
病院での決断もそうですが、強制給餌をやめるときも、これで呼吸不全を起こすよりはとの決断でした。
旅立ちの後、まるで眠っているような安らかな顔を見たとき、私たちの選択は間違っていなかったと思いました。
 



MINAKO FOREVER ・・・
これからもいつも一緒だよ